中村 真紀子(旧姓 内田)

名前: 中村真紀子(旧姓:内田)
ニックネーム: マキコ
研修年度: 2008、2009(研究科生)
国: 日本
地域: 三重県

大学での学業を終えた中村真紀子は国外で開発事業を行なうNGOと関わって働きたいと願っていた。名古屋にある国連の事務所に就職し、環境関係プロジェクトの調査研究助手をしていたのだが、程なくして、それは自分が探し求めていたものではないことに気づいていく。そこのアプローチが「いつもトップ・ダウンで、紙の上ではよいことでも、対象となる人々には全然良いことではなかった」と振り返る。その頃、週末を利用して子どものプログラムでボランティアを始めた。そこでは、コメ作りと野菜栽培に子どもたちが参加したり、石細工で知られた地域であることから石工を招いて子どもたちに教えてもらうなどの活動をしていた。結局国連関係の仕事は辞め、この子どもプログラムでフルタイムの仕事を始めることとなり、創始者が病気で休むと代わって全責任を負うこともあった。

2年が過ぎ、もっと農業経験が積みたいと考え、アジア学院行きを決意した。その時点ではまだ、日本に留まるべきかそれとも国外に出て援助活動に関わるべきか、自分の中で賛否両論があり、どちらとも決めかねていた。その答えはアジア学院で見つかることとなる。クラスメートである、途上国からやって来た農村リーダーたちの有能さに接し、途上国の人々の将来はこれらの人たちに任せる方が良いと考えたのだ。「クラスメートの人たちはたくさんの物を持っている。たくさんのことを知っている。たくさんのことができる人たちだ。開発の仕事は、本当のところ、私の役割ではない」との結論に達した。

国内に留まることを決意し、(アジア学院在学中、予定外の出会いで結ばれた)夫と娘と共に、小さな村で農場を始めることとなった。高齢のため作業ができなくなった農家から土地を借り受け、3つの小さな農場を経営している。お茶と野菜を栽培していて、消費者と生産者の間に意味ある関係を築くことを目指す「提携」方式で消費者に販売している。また、「平和憲法カフェ」という名のグループも始めた。隔月約30人がそこに集まり、平和や人権などのテーマで勉強会を続けている。兵力の国外派遣を禁じた「平和憲法」第9条の再解釈を日本政府が試みている今、扱っているトピックは極めて当を得た喫緊の問題だ。多くの人が過去のような軍国主義の日本に戻るのではと危惧している。カフェにやってくる人のほとんどが、小さな子どもを持つお母さんたちだ。パン焼き経験がある弁護士の協力を得て集まりが開催されていて、この人は、自分が話をしている間に食べてもらうよう、いつもケーキ持参で駆けつける。

農民として生きるという中村と夫の決断は、二人の価値観に基づいて熟考を重ね、細心の注意を払ってたどり着いた結論である。エネルギーと物質的資源のとめどない消費を永久に続けることはできない、と考えてきた二人の思いは、2011年の福島原発災害によりさらに増幅されていった。そういうことから、農民として自分たち自身の小さな仕方で、世界のための食料生産者となることを選択したのだ。しかし、価値観に基づいて生きるということは簡単なことではないし、やり繰りに苦闘することもある。娘の教育の機会ということも心配の種だ。かつて町には小学校が4校あったのだが今は1校のみとなり、たった30人しか在籍していない。「持続可能性というのは自然に実現されていくものではありません。そのために一生懸命、一生懸命働かなければならないものです。持続可能性のため一生懸命働いて、世代から世代へとこの考え方をつないでいく必要があります」と中村は考えている。

追記: この文を書いている今、中村真紀子と夫は4年間経営してきた農場の閉鎖を決断しなければならなくなった。毎年、鹿やイノシシなどの野生動物のために大量の作物が荒らされてきたためだ。それがあまりにもひどくなり、もはや続けることができなくなったのだ。それでも二人は農業と農村生活に関わりを持ちながら生きていきたいと願う。夫は、すべてを有機で行っている日本で唯一の農業校である愛農高校で働き口を得た。育牛について教えることと世話することが彼の任務である。中村は現在娘の養育に専念していて、その娘は学校で飼育されている家畜が大好きな子だ。農村地域で新しい生活を始めるのは易しいことではない。多分それだからIターン人口は少ないのだろう。これまでに様々な困難を経験し、厳しい決断に迫られたことがあったにもかかわらず、田舎で、家族として生きていくという二人の決意に変わりはない――自然と共同体の人々に囲まれて。ここが自分たちの本来の居場所であることを心の中で確信している。

(アジア学院発行書籍「”農村指導者たち アジア学院卒業生の活動と地域への貢献」より)