学び舎の創設 > 言語

 

アジア学院は多言語、多文化、多民族、多風俗、多宗教の人々が集まる「学びの共同体(コミュニティ)」である。多種多様な人々が集まって、集団生活をしつつ、一つの共同体になろうとするのだから、様々な困難な課題に直面するのは日常茶飯事である。その最たるものの一つがコミュニケーシンである。

コミュニケーションには身ぶり手ぶり、叫び、映像、音響、色彩、匂いなど、人の五感に訴える手段が様々あるが、一般に最も身近かなものとされているのが言語である。

アジア学院では共通語として英語を用い、そのことが醸し出す課題については、そのあらましを前号で述べた。英語についていま一つ提起されている深刻な課題は、英語(イギリスの)が急速に米語(アメリカ英語)にとってかわられつつあることである。

言語は一つの文化とその力の象徴であるから、いまや世界唯一の超大国であるアメリカの米語が世界中で巾をきかせるようになるのは、むしろ当然といえるかも知れない。言語の普及はそれが象徴する文化の価値観をも他に押し付ける力を持つ。これは日本人の日常生活における米語の氾濫とアメリカン ライフスタイルの急速な普及をみれば一目瞭然である。

このことがARIの実践教育におよぼす影響は計り知れないものがあり、「学びの共同体」にかかわる者は、つねに心しておかねばならない。

一方、参加者それぞれが自分の言語に持つ態度も多様である。他民族国家からの人々は、しばしば自国の公用語を快く思っていないようだし、途上国の公用語の中に英語が含まれていることも少なくない。

少数民族出身者の場合、自分の言葉に誇りを持っていると同時に、人前でそれを話すのをためらい、むしろ英語あるいは米語を好んで用いる者もいる、という複雑な状況がARIの小さな共同体に醸成されることも稀ではない。この意味でもARIは世界の縮図なのである。

前号で述べた「アジア学院の英語」がそうであるように、学院では参加者それぞれの言語を、人を差別したり、人に優劣をつけたりするのではなく、すべてのものが共に生きるための大切なてだてとして日々心して用いるべきものなのである。

言語は人間社会を平和的多様性を尊ぶ、平和で公正なものとするために欠くことのできないコミュニケーションの手段である。まずアジア学院において、言語が人を高めるてだてとしてのみ用いられるような「学びの共同体」されるように努力をつづけたいものである。

 

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