学び舎の創設 > ことば
学びのコミュニティにとって言語がいかに大きな役割をもつか、またいかに大きな力を発揮するかを、前号までに述べてきた力とは物事や感情、心を動かすものであり、それには良い面と悪い面とがあることも示唆した。 一般に言語は話し言葉と書き言葉だけで成り立っているように思いこむ傾向があり、これは学校や官庁などで特に強いようである。しかし、現実は明らかにそうではない。アジア学院のような多文化、多言語のコミュニティで、しかも大多数にとって母国語ではない英語を共通語としている所では、話し言葉や書き言葉にならない「ことば」が、まことに重要な役割を果たすのである。 また、途上国の多種多様な農村地域の人々だけでなく、わたしたちのいのちを可能にしてくれる自然環境とも「共に生きる」ことをモットーにしているわたしたちにとって、言葉にならない「ことば」はまことに大切である。実際その「ことば」がむしろ日常多く用いられ、尊重され、生きる悦びの源ともなっているのである。 「物言わぬ農民」の代表のような学生やボランティアが毎年数人はいる。貴重な存在である。かれらは滅多に喋らないが、語らないのではない。話し言葉がなかなか出てこないのである。その表情や、身のこなし方、仕事の仕方などで雄弁に語り、また叫んだりもする。それを周りの者が共に生きながら耳と心を傾けて聴くのである。思んばかる、思い量る。そこに対話がある。 大切なのは、相手が喋ったり書いたりするのを待つのでなく、互いの存在、また生き様が発する「ことば」に自分の耳と心を積極的に傾ける。このことは自分たちのいのちを可能にしてくれる環境との対話にも不可欠である。 遠くに見える山や雲、風、学院の敷地を覆っている木々や草花、その芳香など、自然が語りかけるいのちの豊かさ、おおらかさ、きびしさ、つつましさなどは、多文化、多言語の学びの共同体にとっては、傾聴すべき「ことば」である。 自分が蒔いた種が、期待通りに芽を出し、スクスクと成長することに新鮮な驚きを覚え、野菜や草花に話しかける。育雛の責任をもった学生がヒヨコの成長に全神経を集中し、いろいろと話しかける。 学院内での日常の光景である。鶏舎に入る前から糞の臭いで病気の鶏がいるかどうか分かるようになる。その時には学院の仲間のことも、深く感じとるようになっているし、家族や友人からの手紙を通して、かれらの悦びや悩みを分かち合えるようになる。 そのように、共に生きるために必要ないのちの「ことば」を身につけた者の共同体にとって、的確な話し言葉や書き言葉をも身につけることが学びの共同体にとって重要であることは言うまでもない。 |
