学び舎の創設 > 創立三十周年 3
この30年間の間に世界は真っ二つに分けられた。「援助する側」と「援助される側」とにである。「援助する側」の数は少ないが、圧倒的な経済力とそれを裏付ける軍事力で、勝手気ままに振舞い、世界秩序も彼らの意のままに、また彼らの都合のよいように、構築する勢いである。いうまでもなく、このことは国際レベルでも国内レベルでもいえるのである。わが国においても地方の官民は、まず「中央」の意向を伺ってから事を起こすのである。 日本は長い間「援助される側」にあった。敗戦後数年にわたる食糧援助ひとつとってみてもまだ記憶に新しい。 アジアで初めての東京オリンピックは、1964年に開かれたのであるが、そのときまだ日本は援助される側にあった。首都高速道路、その他の道路整備、オリンピック村などは俄か作りのそしりをまぬがれなかった。ギリギリで間に合った感がある東海道新幹線は日本の鉄道技術の高さを誇るものであった。しかし、しかし多額の資金を国際的な金融機関に頼らねばならなかった。 様々な意味で東京オリンピックはそれ以後のオリンピックのモデルとなった。一口に言ってオリンピックは商業化されたのである。スポーツは儲かるのである。多くの青少年の関心は儲かるスポーツに向けられたし、現に向けられている。東京オリンピックの開会から閉会まで、連日数万の観衆、参加選手、バス等での送迎、競技の運営等々を正確に、狂いなく進めたのは精工舎の時計、測定製品および設備であったという。 セイコーの名は一挙にひろがった。世界のセイコーになったのである。日本が正式に(国連によって)「援助する側」と認められたのは1966年のことである。アジア学院の創立よりわずか7年前のことである。日本は、援助される経験の方が援助する経験よりもはるかに長いのである。 「援助される」とはどういうことか?長い被援助の歴史を持つこの国には、その歴史を深く研究したものは少ない。心もとないことである。 アジア学院は世界の動きに細心の注意を注ぎながらも、その動きに迎合せず、農村リーダーの教育・研修に腐心している。しかし、それは「日本が援助する側」になったからでも豊かになったからでもない。創立以来かわることなく掲げているわれらのモットー‘‘共に生きるために’’がそれを明らかにしている。 |
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