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親友が急逝した。

 

親友は生涯の友である。生死に関係ないと思う。急逝したのはDonTarrさんというアメリカ人で、夫人と共に、2度アジア学院を訪ねられた。2006年6月18日(日)午前8時。ミネアポリスの空港に近いノースフィールド市の自宅のオフィスでのことである。激烈な心臓麻痺であった。もとよりご本人は知らないし、マージ夫人も知る由もない。いつものようにコンピューターの前に座っていたときのできごとである。前兆もなかったようである。

アジア・アフリカの人々の食糧を生産し、ひいては世界の人々、ならびに彼らが生きるために、必要不可欠な、自然環境をますます豊かにするという、大切な使命に生きるアジア学院を深く理解して、支援を惜しまれなかった。

アジア学院がいまあるのには、ご夫妻の力によるところ大である。欧米には、せっせと仕事をして財をなし、その財を惜しげもなく慈善事業のために捧げる人々が多い。Tarrさんもそのような方だった。アメリカ合衆国ネブラスカ州ノーフォーク市でクリーニング店を経営しておられたご両親の次男であった彼は秀才であった。

州都リンカーンに近いクリートにあるDoane Collageに入学した彼は2年生の時に、大学から依頼されて、近日中にやってくる得体の知れない日本人学生のルームメイトになった。

その得体の知れない日本人学生が、この僕(しもべ、以下同様)である。

僕は満州(國)撫順市で1926年に生まれた。当時、満州人といわれる人びとは下積みの暮らしをしていたように思う。より生活力の旺盛な朝鮮半島の人々、また清国の人々(中国人)に圧倒されていた。満州人(満人)はマーチョ(馬車)の御者として長い鞭でやせ馬をひっぱたきながら、まだ舗装もできていない道をモウモウと土煙をあげて、全速力で疾走していた。一日のノルマを稼ぎ出すために、また自身の不甲斐なさをむち打つためにも、やせ馬をひっぱたいたのだ。いまの東南アジアでもそうなのだが、運転者はクルマや馬車の所有者ではない。できるだけ多くの頭数を乗せて、一人いくらで目的地まで行く。戦争中のジープを改装し極彩色に塗り替えた「ジープニー」に載る。安全ベルトも乗客を安全に目的地に届ける保証もない。ボンネットや屋根の上にも人やニワトリが溢れんばかりに乗って、運転者が右手で時々前のガラスにつもる土ぼこりを払いのけるのである。彼に見えるのは指3本ほどのすき間だ。が、それだけあれば、眼前のドロンコ道は充分見える。

アジア学院が開校して新年で35年目になる。しかし、この間、世界全体はそれほど変わってはいないのである。マハトマ・ガンジーが喝破したように、「われわれに分かち合う心さえあれば、世界には充分な食糧がある。しかし、その心に欠ければ飢餓がある」。残念なことに、世界の飢餓人口は増える一方である。

2006年の夏、新書判の「格差社会」という本が出版された。すぐれた論文集である。世の中の格差、さまざまな格差は、人が人である限り解消されない、というのが僕の意見である。

そしてアジア学院のなすべき使命も変わらないのである。

今回で学び舎の創設は終了です。長い間ご愛読ありがとうございました。

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